六四天安門事件

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事件の概要

天安門事件は、1989年6月4日、北京の天安門広場に集まり民主化を求める学生や市民を、中国の軍隊である人民解放軍が武力で鎮圧したものです。
保守派の批判を受けて失脚した改革派の胡耀邦・元総書記が亡くなったことをきっかけに、北京にある天安門広場で学生らが連日追悼集会を開き、元総書記の名誉回復などを求めましたが、次第に要求は民主化への移行を求めるものに変わっていきました。
さらに、中国共産党の機関紙「人民日報」が学生らの運動を「動乱」と見なす社説を掲載したことから学生たちの間に強い反発が広がり、社説の取り消しなどを求めて一部はハンガーストライキなどの行動に出るようになったほか、100万人規模のデモも行われました。
事態を重く見た中国共産党は北京市に戒厳令を敷き、デモの収束のため、6月3日の夜から4日にかけて天安門広場やその周辺に軍隊を動員し、無差別に発砲して武力で強制的に鎮圧しました。
この際に多くの学生らが犠牲になり、中国政府は死者の数を319人と発表しましたが、実際の人数はもっと多いとも指摘されていて、事件の真相は今も明らかになっていません。

事件の背景と影響

天安門事件は、1976年4月5日に周恩来総理が死去したときに発生した四五天安門事件と区別するために「六四天安門事件」とも言われています。
デモは民主化運動のために起こったというのが一般的な解釈ですが、真の情報は中国政府によって秘匿されていて不明のままです。当時の中国一般市民はそもそも民主主義というものがどういうものか知識として持っていなかったはずだという見解もあります。
天安門事件は、政権争いにも深く関わっていると言われています。中国共産党内でも共産主義の徹底を主張する鄧小平氏と、共産主義の枠組みを超えた政策を標榜する趙紫陽氏との対立があり、デモの平和解決を求める趙氏に対して、鄧小平氏は趙氏を軟禁状態とし、武力弾圧を決行しました。
事件の後、中国政府はデモに参加した学生や市民、知識人、ジャーナリストなどを大規模に逮捕・拘束・処罰し、メディアや教育機関に対しても厳しい検閲と統制を強化しました。
天安門事件は、中国だけでなく、世界中に衝撃を与えました。多くの国や国際機関は、中国政府の人権侵害を非難し、経済制裁や外交関係の冷却などの措置をとりました。
一方で、天安門事件は、中国の経済改革や開放政策にも影響を与えました。鄧小平氏は、1992年に南巡講話を行い、市場経済の推進や外資の導入などを強調し、中国の経済発展に新たな方向性を示しました。
天安門事件から34年後の2023年6月4日、香港では民主活動家らが警察に拘束されました。香港は1997年にイギリスから中国に返還された後も「一国二制度」のもとで相対的な自由を享受していましたが、2020年に中国政府が施行した香港国家安全維持法(国安法)によって、天安門事件の公的記念行事も違法とされました。
香港の民主化運動は、天安門事件の精神を受け継いでいると言われていますが、中国政府は香港における反体制的な意見を封じ込めようとしています。台湾や海外では、天安門事件の犠牲者を追悼し、香港の民主化を支援する声が上がっています。

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