断頭台のギロチンを発案したのはフランス人のGuillotineさん
フランス革命は、人権宣言を発布し、身分制度を廃止し、王権を打倒するという画期的な変革をもたらしました。しかし、その過程で、多くの人々が血の代償を払いました。特に、断頭台と呼ばれる新しい処刑法が、恐怖政治の象徴となり、ルイ16世やマリー=アントワネットをはじめとする何千人もの人々の命を奪いました。この断頭台は、ギロチンという名前で知られていますが、発案者の名前がGuillotineです。Guillotineはフランス語での発音はギヨタン、英語読みだとギロチンになります。
ギロチンの発案者はギヨタン
ギロチンの発案者は、ジョゼフ=イニャース=ギヨタンという人物でした。彼は医学博士で、衛生問題に詳しく、フランス革命がはじまって発足した国民議会(憲法制定議会)の議員でした。彼は、人権宣言が発布されたことを受けて、処刑の方法を平等にし、苦痛を伴わず、迅速に処刑できる方法の採用を訴えました。彼は、革命前は貴族は斬首、平民は縛り首というように身分によって異なっていた処刑方法を廃止し、刃を落下させて首を斬るという新しい断頭施設を考案しました。彼は、処刑された人の汚名はその家族にまで及ぼすべきではないこと、罪人の資産をすべて国が没収することは許されるべきでないこと、死者の遺体は遺族の要請があれば引き渡されるべきであること、遺族の戸籍には死刑の記録を残さないことなども提言しました。彼は、処刑の平等化と人道化を目指したのです。
ギロチンの発明者はシュミット
ギヨタンは、自らの発案を実現するために、機械的な設計と製造をドイツ人のクラブサン(ピアノの前身となった楽器)制作者のトビアス=シュミットに依頼しました。シュミットは、優れた機械工であり製図工であり、ギヨタンの発案をもとに、処刑台の上に溝のついた二枚の直立材に刃をつけ、取り付けた錘(おもり)をはずすと刃が落下し、下方の二枚の半円形の板にはさまれた罪人の首を切り落とすという処刑具を考案しました。これがギロチンの原型であり、つまりその発明者はシュミットということになります。シュミットは、ギロチンの製造権を独占し、フランスで作られるギロチンのすべてを製造しました。今もギロチンの製造特許はシュミット社が持っています。
ギヨタンとシュミットは、彼らの最終的な設計図を、ルイ16世の侍医でフランス外科学士院長官のアントワーヌ=ルイに提出しました。ルイは、ギヨタンの発案に賛成し、議会への提案の名義人となりました。ルイは、死体を使ったデモンストレーションを議員たちの前で行い、ギヨタンは、この最も人道的な処刑法を設計し装置を建設したのはルイであると演説しました。彼の名が当時最も良く知られていたからで、彼の名と評判で議員が納得することを計算に入れたのでした。この演説は非常に効果があり、革命政府がこの処刑法を採用すると、ルイがその創始者であるとされて「ラ=ルイゾン」または「ラ=ルイゼット」というあだ名がつきました。世間一般がギヨタンがその発案者であることを知ったのは数週間後でした。なお、ルイ16世がギロチンの設計に意見したという話は、アレクサンドル=デュマの『93年のドラマ』に出てきますが、事実かどうかは疑わしいです。
ギロチンの使用と影響
ギロチンによる最初の処刑は、1792年4月25日にグレーヴ広場で、窃盗罪のジャック=ベルティエという男に対して執行されました。その後、ギロチンはフランス革命の処刑法として広く用いられました。特に、ジャコバン派の恐怖政治の時期には、多くの反革命容疑者がギロチンで処刑されました。その中には、ルイ16世やマリー=アントワネット、オランプ・ド・グージュ、ジョルジュ・ダントン、マクシミリアン・ロベスピエールなどの有名人も含まれていました。ギロチンは、革命の理念に反する者を容赦なく処刑する恐怖政治の象徴となりました。しかし、ギロチンの発案者であるギヨタンは、自らの発案がこんなに残虐な使われ方をするとは思っていませんでした。彼は、この断頭台をギロチンと呼ぶことに再三異議を申し立てましたが、聞き入れられませんでした。彼は、自ら改姓することで諦めました。なお、彼自身がギロチンに掛けられたという話がありますが、事実ではなく、ギヨタンは病死したとの記録が残っています。
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