【まとめ】第二次世界大戦(WW2)の国別死者数(犠牲者数)と激戦地一覧

この記事は約13分で読めます。

第2次世界大戦の戦死者

第二次世界大戦の世界中での死者数は6000万〜8000万人。
これには直接的な戦闘での死者だけでなく、餓死や病死の人も含んでいる。

国別死者数

  1. ソ連 2,660万人
  2. 中国 1,320万人
  3. ドイツ 690万人
  4. ポーランド 600万人
  5. インドネシア 400万人以上
  6. 日本 310万人
  7. ベトナム 200万人以上
  8. ユーゴスラビア 170万人
  9. インド 150万人
  10. オーストリア 120万人
  11. フィリピン 110万人
  12. フランス 60万人
  13. イタリア 45万人
  14. イギリス 40万人
  15. アメリカ 30万人

主要国の人口に対する戦死者割合

  1. ポーランド 19.0% (人口2320万人)
  2. ソ連 13.5% (人口1億9,670万人)
  3. 中国 2.5% (人口5億2,000万人)
  4. ドイツ 10.0% (人口6,900万人)
  5. 日本 4.3% (人口7,130万人)
  6. フランス 1.4% (人口4,170万人)
  7. イタリア 1.0% (人口4,440万人)
  8. イギリス 0.8% (人口4,780万人)
  9. アメリカ 0.2% (人口1億3,100万人)

世界全体での死者数

第二次世界大戦の世界全体での死者数は6000万〜8000万人と言われている。
当時の世界人口は20億人、そのうちの4%が死亡したことになる。

ただし、これら8000万ともいわれる数字の中には銃弾や爆撃によって亡くなった直接的な死者だけではなく、飢饉や疫病など戦争によって引き起こされた環境の悪化による2次的な被害者の数も含まれている。

民間人の被害者数は3800万〜5500万。
この内、飢饉や病気によるものは1300万〜2000万。

軍人関係者の被害者数は2200万〜2500万。
こちらも同じく食糧不足や病気など戦闘以外での死者数を含む。

ソ連の死者数が2660万人と他国と比べて抜きんでて多い。
当然ながら国別死者数のランキングでは1位である。
ソ連は1923年生まれの男性の8割以上が死んだとされている。

 激戦地

日中戦争、黄河決壊事件(1938)

死者数100万人
中国国民党が現地の中国人を大量虐殺した事件。
中国は日本の進行を止めるために黄河を意図的に決壊させた。
周囲の11都市4000の村が水没し100万人規模の死者・行方不明者が発生した。
この事件に関して日本軍に対する人的な被害はほぼゼロ。
中国の意図通り氾濫による地形の悪化で日本の進行は遅れたが、100万人の自国民を犠牲にして釣り合うほどの効果が得られたかは疑問。

ちなみにこの当時の中国のトップは蒋介石。
現在の台湾を作った人。
やることがえぐい。
この黄河決壊作戦を蒋介石に提案したのはドイツのゼークト。
軍事顧問団として国民革命軍に参加していた。
この後、日本がドイツと同盟を結んだのは、ドイツの中国支援を止めるためと言われている。

なんで中国政府が中国人を100万人にも殺すようなえぐいことをしたかというと、
事件後に日本軍の仕業だと宣伝して民衆を煽ろうとしたため。

しかし中国国民党はこの黄河決壊作戦を日本軍の仕業に見せかける工作に失敗。
黄河流域の民心を完全に失った。
その後、中国国内では反国民党の機運が高まり日本軍へ協力する中国人が多数出ることになる。

ポーランド侵攻(1939)

死者数31万人
第二次世界大戦のきっかけとなった事件
ドイツ、クロアチア、ソ連が相次いでポーランドに侵攻。
これをきっかけにイギリス、フランスが宣戦布告し第二次世界大戦が勃発した。
この時ドイツは戦車や爆撃機による近代兵器を前面に押し出したのに対し、ポーランドは馬に乗って戦うという旧時代の装備しかなかった。
当然ポーランドはドイツ軍に蹂躙され、多くの命が失われることとなる。

上海戦(1939)

死者数30万人
第二次上海事変、通称は上海戦。
中国軍3万人が民間人が住む国際共同租界の日本人区域を包囲した。
これに抗議し撤退を要求する日本に対し中国側は銃撃を開始。
中国軍30,000人に対し日本軍は周辺区域から集められた4,000人だけであった。
その後戦闘は拡大し、最終的には中国軍25万人、日本軍5万人、計30万人の死者を出すに至った。
戦況としては日本側の勝利となり、中国軍は撤退する。
中国軍は撤退の際に現地住民を虐殺、食料を略奪し施設を破壊していった。
そのため中国軍が各地で略奪を始めるとその戦線での中国軍の撤退が予定されていることが日本軍にも暗に伝わる結果となった。
また中国の現地住民も略奪を繰り返す中国軍に抵抗し、中国の民間人が中国の軍人を返り討ちにするような場面も見られた。

武漢作戦(1939)

死者数54万人
武漢作戦は日中戦争において発生した日本軍と中国軍の衝突
日本軍35万人と中国軍110万人が衝突し、日本側の死者は1万、中国側の死者は50万とも言われている
この戦いで日本は多くの動員・巨額の出費をしたためその後の国家総動員法へとつながっていく

冬戦争(1940)

死者数20万人
第二次世界大戦中の1940年にソ連がフィンランドに侵攻した。
フィンランドはこの侵攻に抵抗し多くの犠牲を出しながらも独立を守った。
有名なスナイパーのシモヘイヘや戦闘狂として有名なユーティライネンが活躍。
コッラー川の戦いではシモヘイヘの所属する32人の部隊がソ連の4000人の兵力に対して陣地を守り切ることに成功した。
スウェーデンは戦後も含めて国土防衛に関しては兵器・戦術共にめちゃくちゃ強い。
ちなみに自衛隊が今使ってる戦車もスウェーデンの兵器を参考にしてる。

フランスの戦い(1940)

死者数50万人
1940年に発生したドイツ軍をはじめとする枢軸国軍と連合国軍とのベネルクス三国・フランス北部での戦い。
この戦いはドイツ軍の電撃戦の最も成功を収めた例と言われる。
自然の要塞と言われたアルデンヌの森を戦車機動部隊で強引に突破し連合国軍をフルボッコにした。

オデッサの戦い(1941)

死者数14万人
オデッサの戦いは1941年8月の独ソ戦初期に黒海沿岸の軍港都市であったオデッサを巡って行われた戦い。
当時ドイツ寄りだったルーマニア軍に約10万、ソ連軍に約4万の死者が出た末、ドイツ軍が辛勝した。
なおこの戦いの際にオデッサの市民約10万人がルーマニア軍にわずか2日で虐殺される。
ガンダムに出てくるオデッサはこの都市がモデル。
現在のオデッサはウクライナの港湾都市。

キエフの戦い(1941)

死者数70万人
歴史上でも稀有な大包囲戦。
第二次世界大戦中、キエフにおいてドイツ軍がソ連軍を包囲。
わずか1ヶ月でソ連軍に60万人の犠牲者を出した。
これによりソビエト南西方面軍が壊滅。
包囲網から脱出できたのは15,000人。
実に97.5%の人員が死亡したことになる。
しかし、この1か月に及ぶ戦いによりロシアは冬を迎えることになる。
ここでの戦いには勝利したドイツ軍も厳冬のモスクワでは身動きができず最終的には連合軍側に情勢が傾くこととなった。
ちなみにこの戦いでのドイツ軍の死者は10万人。
現在のキエフはウクライナの首都。

レニングラード包囲戦(1941-1944)

死者数112万~450万人
レニングラード包囲戦はソビエト連邦第二の都市レニングラードを巡ってドイツ軍とソ連軍の間で発生した。
ドイツ軍によるレニングラード包囲は3年にも及ぶが最終的に陥落させるには至らず。
なおソ連側はこの戦いで民間人だけで100万人の死者を出したと言われている。
ドイツ軍・ソ連軍を合わせた犠牲者の数は450万人ともいわれるが長期間過ぎて、また人数が多すぎて詳細は不明。
ちなみに大平洋戦争での日本本土の死者(沖縄戦・東京大空襲・広島・長崎等を含む)よりこの街で死亡した民間人の人数の方が多い。

モスクワの戦い(1941-1942)

死者数100万人
オデッサ、キエフレニングラードの戦いに続いて、1941年に始まったモスクワ近郊でのドイツとソ連の戦い。
この戦いではドイツ側に25万、ソ連側に75万の犠牲者を出したもののソ連はドイツ軍を退けることに成功。
厳冬のモスクワに適応しきれずドイツのソ連攻略バルバロッサ作戦は失敗へと進んでいく。

マレー作戦・シンガポール侵攻(1941)

死者数14万人
太平洋戦争初期の日本軍によるイギリス領マレー・シンガポールへの侵攻作戦。
この作戦は世界の戦史上まれに見る快進撃であった。
植民地支配に反対する多数の地元民衆の支援を受けたおかげで大本営の期待を上回る成功を収める。
日本軍の南方作戦は順調なスタートを切ることとなった。
この成功により戦線を広げた結果、物資や人員が不足し逆に日本は苦境に陥ることとなる。

ハリコフ攻防戦(1942)

死者数32万人
ウクライナの大都市ハリコフ奪還を目指すソ連と枢軸軍の戦い。
スターリンはドイツ軍に余力はなくこれ以上の攻勢はないと判断、ソビエト側がドイツ軍へ反撃を開始するのろしとなるはずであった。
しかし、装備で劣るソ連軍が大敗。
6月からのドイツ軍の南部戦線での攻勢(ブラウ作戦)で、序盤のソ連軍の一方的敗走を招く原因となった。
枢軸軍側の犠牲者が2万人に対し、ソ連側は実に10倍以上の30万近い死者を出すこととなる。
かの有名なマンシュタインのバックハンドブロー作戦はこのハリコフ攻防戦にて行われた。

ガサラの戦い(1942)

死者数15万人
この戦いはリビアのトブルクをめぐり1942年に枢軸軍と連合国軍との間で行われた戦闘やで
戦争が弱いイタリア軍の元へかの有名なロンメル将軍率いるドイツ軍が派遣され、ロンメル将軍の指揮により枢軸軍が勝利を収めるで

ビルマの戦い(1942-1945)

死者数70万人
この戦いはイギリス領ビルマとその周辺を巡って日本・ビルマ・インド・タイ軍と連合国軍の間で発生した戦いやで
この戦いは終戦直前まで続き多くの犠牲を出したで
なお1943年の段階で補給に心配があることが分かっていたため進軍を諦めたのにも関わらず、1944年に日本軍の中でも超絶無能指揮官として有名な牟田口廉也によりインパール作戦が実施され多数の死者を出した模様
ちなみに牟田口はあまりにも無能で連合国側に多くの利益を与えたため、戦争終結後に戦犯として裁かれなかったで

スターリングラード攻防戦(1942-1943)

死者数200万人以上
スターリングラード攻防戦は第二次世界大戦中にドイツ軍とソ連軍により発生した戦闘やで
スターリングラードの地は戦略上の要塞地であったことに加え、当時のソ連の指導者であったヨシフ・スターリンの名を冠した都市であったことから史上最大の市街戦となったで
この戦いで枢軸軍に少なくとも85万、ソ連軍に少なくとも120万の死者が出たで
あまりにも死にすぎたため詳細な人数は不明
戦闘中には深刻な食糧難に陥り、犬肉と偽って干した人肉が食料として販売されていたという報告もあるで
戦闘開始前は60万人いた街の人口は戦闘終了後9,800人まで減少したらしいで

クルスクの戦い(1943)

死者数35万人
ソ連の都市であるクルスク周辺をめぐりドイツ軍とソ連軍との間で行われた戦い。
この戦いはドイツ側約2,800輌、ソ連側約3,000輌の合計約6,000輌の戦車が戦闘に参加し歴史上最大の戦車戦。
結果はソ連軍が勝利を収めるものの損害は大きくこの後の戦いに影を落とすこととなる。

ドニエプル川の戦い(1943)

死者数160万~280万人
1943年にドニエプル川を挟んで行われたドイツとソ連の戦い。
この4か月の戦いで東岸はソ連5個方面軍によってドイツ軍から取り戻され、さらに西岸にいくつかの橋頭堡を築くために幾筋かの攻撃渡河の先導となった。

モンテ・カッシーノの戦い(1944)

死者数19万人
1994年、イタリアのモンテ・カッシーノで行われた戦い。
連合国軍におけるグスタフ・ラインの突破およびローマ解放のために企画された。
連合国軍側が勝利する。
その後、連合国軍は32kmの前線に20個師団を投入。
その間にドイツ軍は空爆を行い連合軍側は甚大な被害を負う。

1号作戦(1944)

死者数100万人
1944年、日本軍によって行われた中国大陸での大規模作戦。
この作戦は、当時日本海軍の艦船や台湾を攻撃していた爆撃機を阻止するために、中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することを目的としていた。
また、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くことも重要な要素であった。
日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦となった。
日本陸軍が建軍以来行った中で史上最大規模の作戦である。
日本軍は連合国軍に勝利、航空基地を占領し計画は成功する。
しかし、作戦中にアメリカ軍によりマリアナ諸島が陥落したことから、日本本土がアメリカ軍爆撃機の作戦範囲内になってしまう。
これにより中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することはできたが、爆撃機の脅威を完全い排除するには至らず戦略目的は十分には実現できなかった。
日本軍の死者は10万、中国軍・連合国軍の死者は90万人にのぼった。

ヤッシー=キシニョフの戦い(1944)

死者数70万人
ソビエト赤軍の第2、第3ウクライナ方面軍によって行われたルーマニアへの侵攻作戦。
ソ連にによる政治的影響をバルカン諸国に及ぼそうとするスターリンの戦略によるもの。
第一次作戦では枢軸国軍の勝利。
しかし2度にわたるソ連軍の猛攻によって防衛側の枢軸軍は敗退。
またルーマニアでは政変が起き枢軸側からソ連側に立場を変えることになった。

ワルシャワ蜂起(1944)

死者数20万人
第二次世界大戦後期にナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起。
ソ連軍の占領地域がポーランド東部一帯にまで及んだことにより、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた。
そしてドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワでポーランド国内軍・レジスタンスが武装蜂起が発生。
なおソ連軍はポーランド国内軍への支援をせずに静観したせいでドイツ軍の猛反撃にあいポーランド国内軍はほぼ全滅。
更にドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にされる。
蜂起参加者はテロリストとされ多くの市民が処刑された。戦死者、処刑者合わせて約22万人が死亡した。

ブタペスト包囲戦(1944-1945)

死者数42万人
ハンガリーの首都ブタペストで第二次世界大戦末期にソ連軍のブタペスト攻勢によって発生した戦い。
ハンガリーは交通の要であり、燃料資源が近くにあるという背景があった。
そのため第二次世界大戦では各国の争奪戦が繰り広げられ激戦地の1つとなる。
この戦いでソ連軍はドイツ・ハンガリー軍の残存兵力をブタペストから駆逐を試みた。
また対するドイツ軍もヒトラーにより徹底抗戦を命じられ激しい戦いが繰り広げられた。
それにより双方消耗戦となり、ドイツ・ハンガリー軍に15万、ソ連軍に30万近い死者が出る。

バルジの戦い(1944-1945)

死者数19万人
アルデンヌ高地を巡ってドイツ軍と連合国軍の間で発生した戦い。
当時連合国側はアルデンヌ高地に対するドイツの攻勢を予想していなかった。
そのため実戦経験が皆無か以前の戦闘で消耗した部隊のみが配備される。
結果として多くの戦線でドイツ軍の突破を許す。
しかし、連合国側の物量作戦によってドイツ軍は次第に追い詰められ敗退する。
この戦いでドイツ軍は貴重な戦力と物資を余計に消耗することとなった。

マニラの戦い(1945)

死者数11万人
第二次世界大戦末期の1945年、フィリピンの首都マニラで行われた日本軍と連合軍の市街地戦。
70万人の市民が残留したままで行われたこの戦いでは日本軍側に死者15,000人、連合軍側に死者数千人を出した。
市街地への無差別砲撃で民間人が10万人以上死亡したとされている。

ルソン島の戦い(1945)

死者数34万人
1945年初頭から大戦終結まで、フィリピンのルソン島で日本軍と連合国軍によって行われた戦い。
この戦いでは日本軍に機甲師団が配備されていたため、太平洋戦線では珍しく多くの戦車戦が発生した。
大戦末期、大半がジャングルのルソン島で日本軍は、食糧の補給は完全に途絶えて餓死者が続出した。
また、マラリアや赤痢にかかる者が続出し戦闘どころではなかった。
部隊としての統制は乱れ、部隊ごとに山中に散開して生活していた。
降伏は固く禁じられていたため、伝染病にかかった者はそのまま死ぬか自決し、衰弱した日本兵は抗日ゲリラや現地民族に襲撃され消耗していった。
兵士の間で台湾までたどり着けば助かると信じられていたために、泳いで海を渡ろうとするものまでいた。
終戦の4日後、8月19日に山下大将は停戦命令を受容した。
しかし分散した各部隊への連絡は困難で、半年かけてようやく全軍が降伏した。
降伏までに日本軍は20万人が戦死あるいは戦病死した。
アメリカ軍に収容されたが、力尽きて輸送船の甲板への梯子が登れず死ぬ者までいたという。

ベルリンの戦い(1945)

死者数130万人
ベルリンの戦いは第二次世界大戦末期にドイツ軍とソ連軍によって発生した戦い。
この戦いの末にヒトラーが自殺し、ドイツの戦争は終焉を迎えた。
ドイツ軍にとっては戦闘開始時点で既に絶望的状況。
それでも必死の抵抗を続けた結果両軍に多大なる犠牲を出すこととなった。
この戦いでドイツ側に65万以上、ソ連側に40万以上の犠牲が出たと言われているが詳しい資料は残っていない。

沖縄戦(1945)

死者数20万人
第二次世界大戦末期の1945年、沖縄諸島に上陸したアメリカ・イギリス両軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦い。
水際防御を避け、硫黄島の戦いで行われたような内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針としたため民間人の犠牲者が多く出た。
大和の沖縄特攻もこの戦い。

コメント

タイトルとURLをコピーしました