トカラ列島とは?
トカラ列島は、日本の南西諸島の一部で、鹿児島県に属する島嶼群です。この列島は行政上、鹿児島県鹿児島郡十島村に所属しており、気象情報では奄美地方の一部(北部)として扱われています。
地名の由来については諸説あり、「トハラ」や「タカラ」などが挙げられています。かつては七島や川辺七島、宝七島とも呼ばれていました。明治期以前には薩摩国川辺郡に属しており、十島という名称で知られていました。
1884年には地理沿革をまとめた『川辺郡七島問答』が発表され、1897年には大隅国大島郡に編入されました。1908年には島嶼町村制が導入され、十島村として組織されました。しかし、第二次世界大戦後の1946年、下七島はアメリカ合衆国による沖縄統治の一環として日本本土から分離されました。これにより、下七島はアメリカ軍の軍政下に入り、密貿易の拠点となりました。
1952年に下七島が日本に返還され、十島村が発足しました。同時に、以前の十島村であった上三島は分立し、村域と村名が三島村に変更されました。
トカラ列島は自然の宝庫であり、多様な地理と生態系を有しています。この列島は北部、中部、南部に分かれ、その間に「トカラギャップ」と呼ばれる地形的な窪みが存在し、生物学的な境界にもなっています。この地域では横ずれ断層型の地震が起きやすく、群発地震が頻繁に発生しています。また、動植物相においてもトカラ列島は独自の特徴を持ち、九州本土と奄美群島、沖縄との境界とされる渡瀬線が存在します。
島嶼の一覧
- 平瀬(無人)
- 口之島
- 中之島
- 臥蛇島(無人)
- 小臥蛇島(無人
- 平島
- 諏訪之瀬島
- 悪石島
- 小島(無人)
- 小宝島
- 宝島
- 上ノ根島(無人
- 横当島(無人
平瀬:十島村の無人島
平瀬は十島村に属し、口之島の東北東約13kmの海上に位置し、約4平方kmの海域内に複数の瀬が広がっています。また、平瀬から更に東北東約40kmには屋久島があり、横当島から南南東約57kmには奄美大島、東約75kmにはサンドン岩が存在しています。
トカラ列島の歴史
古代の謎:縄文後期と弥生中期の謎の土器
宝島と中之島からは縄文後期や弥生中期の土器が出土しており、この地域に古代の文化が存在したことが示唆されています。
『続日本紀』の謎
『続日本紀』には、699年8月19日に多褹、夜久、菴美、度感の人が物を貢いだという記録が残っています。これらの地名は、現在の種子島、屋久島、奄美大島、徳之島に該当します。しかし、度感をトカラ列島に関連づける説も存在します。さらに、『日本書紀』には吐火羅や覩貨邏の文字が見られ、これが中国西域のトハラ人を指すとする説や、日向や筑紫、海見嶋に漂着したとの記述から、これらをトカラ列島に関連づける説もあります。
中世の交流と平家末裔
中世には、十島村は南薩摩で権勢を誇った薩摩平氏の河邊氏一族の勢力下に入ったと考えられています。また、平家の落人伝説もこの地域に伝わっています。各島には平家末裔を称する島司が存在し、島の実権と祭祀を管理していました。
交易と交渉:中近世から近現代へ
中近世(16 – 18世紀)には、七島衆として知られる海上交易勢力がトカラ列島の海域を拠点に、薩摩と琉球の間の交易を取り持ちました。薩摩藩による琉球侵攻においても、十島村は水先案内人として活躍しました。その一方で、琉球王府に情報提供を行い、日和見的な立場を取ったとされています。
近現代の出来事
太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)、疎開船「対馬丸」が悪石島沖で米軍に撃沈され、沈没するという悲劇が発生しました(対馬丸事件)。また、1946年(昭和21年)には引揚者や復員兵を乗せた宝永丸が密航し、中之島沖で沈没し、50人の犠牲者を出すという悲劇も起こりました。
十島村は長い歴史を持つだけでなく、その歴史には謎やドラマが詰まっています。これからもその歴史の一端を解明し、伝えていくことが大切です。
明治期以前:十島、薩摩国川辺郡に結びつく
十島村の歴史は、明治時代以前から始まります。この地域は、黒島、硫黄島、竹島などの上三島と合わせて、トカラ列島(下七島)と呼ばれ、薩摩国川辺郡に属していました。
1871年:郡区編成法により十島村誕生
郡区編成法に基づき、十島は十島村(じっとうそん)として誕生しました。これに伴い、在番制度は戸長制度に置き換えられました。
1885年:上三島と下七島が異なる管轄下に
1885年、上三島は鹿児島県大島郡金久支庁種子島出張所(現在の西之表市)の管轄、一方、下七島は金久支庁(現・奄美市名瀬)の管轄となりました。これは事実上の飛び地管轄といえます。翌年、金久支庁は大島島庁に改称されました。
1889年:熊毛郡と馭謨郡を分離し、大島郡役所が管轄
大島島庁から熊毛郡と馭謨郡(ごむぐん)が分離され、種子島出張所は種子島郡役所となり、両郡を管轄することとなりました。
1897年:十島、大隅国大島郡へ再編
十島は1897年に令制国上で、薩摩国川辺郡から大隅国大島郡へ再編されました。
1908年:十島村の誕生
1908年4月1日、島嶼町村制度が施行され、上三島を含む十島は十島村(じっとうそん)として正式に誕生しました。村役場は中之島に置かれました。
1946年:米軍政庁統治下へ
太平洋戦争後の1946年1月29日、連合国総司令部の宣言により、北緯30度以南の領域(口之島を含む)が琉球列島米国軍政府の統治下に置かれました。十島村は上三島だけが日本に残り、中之島も米軍政府の支配下に入りました。このため、上三島は仮の十島村(じっとうそん)役場を鹿児島市に設置しました。
1952年:下七島の日本への返還
1952年2月10日、下七島が日本に返還され、十島村(じっとうそん)として正式に分立しました。同日、上三島は十島村(じっとうそん)から三島村に改称し、分離されました
トカラ列島の自然・トカラヤギ
トカラ列島は、その美しい自然環境から全域が鹿児島県立の自然公園に指定されています。このため、各島内の植物や昆虫の持ち出しは禁止され、豊かな生態系を保護しています。また、トカラヤギと呼ばれる小型の家畜が飼育され、中之島では野生のトカラヤギも見られます。
トカラ馬
トカラ列島には、トカラ馬と呼ばれる日本在来馬種が存在します。これらの馬は、明治30年頃に喜界島から宝島に導入され、かつては農耕馬として運搬や畑作業を手伝っていました。1953年には鹿児島県の天然記念物に指定され、中之島には観光向けのトカラ馬牧場もあります。
文化の宝:シチトウと仮面神ボゼ
トカラ列島は、文化的な宝も多く抱えています。シチトウという畳の原材料は、この地域に由来します。トカラ列島は7つの島から成り立っており、そのうち小宝島を宝島に含めて数えることから「シチトウ」という名称が生まれました。江戸時代にはトカラ列島からシチトウの苗が豊後国日出藩(現在の大分県日出町)へ持ち込まれ、全国の畳表に使用されるようになりました。さらに、柔道の発展にも寄与し、柔道畳としても利用されました。1964年の東京オリンピックの柔道会場でも使用されたのです。
2018年11月には、悪石島に伝わる「仮面神ボゼ」が、ユネスコの世界無形文化遺産「来訪神:仮面・仮装の神々」の構成資産の一つとして登録されました。
マスメディア
十島村には、テレビ放送の中之島中継局があり、地域の情報発信の中心として機能しています。また、南海日日新聞と奄美新聞という地域の新聞社が存在し、地域のニュースや情報を提供しています。
天体観測:星空とのふれあい
中之島には九州最大級の60センチ反射望遠鏡を持つ天文台があり、星空を観測する環境が整っています。この地での天体観測は、特に皆既日食や金環日食の観測に適しています。ただし、気象条件に左右されることもあるため、観測の際には注意が必要です。
アクセス:フェリーとしま2
トカラ列島へのアクセスは、フェリーとしま2を利用することが一般的です。鹿児島港(南埠頭)から口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小宝島、宝島へと結びつき、週に2便が運航されています。ただし、多客期や特殊なダイヤの場合、3便が運航されることもあります。2013年7月1日からは、宝島 – 名瀬港間の運航が全便となりました。列島への訪問時には、運航情報に注意が必要です。
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