なぜ甲子園の土を持ち帰るのか?最初に土を持ち帰ったのは誰?

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甲子園の土とは

甲子園の土とは、甲子園球場のグラウンドに敷かれている黒土と砂の混合物のことです。
この土は、雨の多い春と夏で微妙に割合が変わり、水はけやボールの見えやすさに配慮されています。
甲子園の土は、高校野球の聖地としての象徴であり、高校球児たちの夢と記憶の証でもあります。

甲子園の土を最初に持ち帰ったのは誰か

甲子園の土を最初に持ち帰ったのは、諸説ありますが、以下の2人が有力な候補とされています。
1937年夏の甲子園に出場した熊本工の川上哲治選手
1949年夏の甲子園に出場した小倉高の福嶋一雄選手

川上哲治選手の場合

川上哲治選手は、1937年夏の第23回大会で、愛知の中京商との決勝戦で敗れ、準優勝に終わりました。
そのとき、彼は後輩たちには来年優勝してもらいたいという願いを込めて、甲子園の土を靴下に入れて持ち帰りました。
そして、母校の熊本工業の練習場にある水前寺球場にその土を撒きました。
彼は、甲子園出場後、巨人に入団し、選手・監督として多大な功績を残しました。

福嶋一雄選手の場合

福嶋一雄選手は、1949年夏の第31回大会で、大会3連覇をかけて出場しました。
彼は、旧制小倉中学の4年生だった第29回大会と、新制小倉高の2年生だった第30回大会で、全5試合を1人で投げ、九州勢初の全国制覇と大会連覇を果たしました。
しかし、3連覇を目指したこの年は、倉敷工との準々決勝で先発するも、6-6の同点で迎えた9回裏に無死満塁のピンチを招いて降板し、チームは結局、延長10回の末、サヨナラ負けを喫しました。
試合終了後、彼は脱力感からもうろうとしながらグラウンドから引き上げるとき、無意識のうちに球場の土を摘んでポケットに詰めました。
そのことに気づいたのは、2日後に大会審判副委員長から手紙が届いたときでした。
その手紙には、甲子園の土を3年間も踏んだことで、学校教育で学べない多くを学んだはずだという励ましの言葉が書かれていました。
彼は、その土を自宅の玄関に置いていたゴムの木の植木鉢に入れて大切にしました。
彼は、高校卒業後も早稲田大学、八幡製鉄(現・日本製鉄)で野球を続け、のちに日本野球連盟の理事や参与などを歴任し、2013年には特別表彰で野球殿堂入りも果たしました。

甲子園の土を持ち帰る風習が定着したのはいつか

甲子園の土を持ち帰る風習が定着したのは、戦後の1950年代から1960年代にかけてとされています。
この時期は、高校野球の人気が高まり、甲子園が高校球児の夢の舞台として認識されるようになりました。
また、テレビの普及により、甲子園の試合が全国に生中継されるようになり、負けた高校球児たちがベンチの前で土を集める姿が多くの視聴者に感動を与えました。
このように、甲子園の土は、高校野球の歴史とともに、夏の風物詩となっていきました。

甲子園の土を持ち帰る理由と意味

甲子園の土を持ち帰る理由と意味は、高校球児たちによってさまざまですが、一般的には以下のようなものが挙げられます。
甲子園は高校球児の夢であり、そこでプレーしたという証であるから
高校時代の3年間を忘れないようにするために、思い出の品として持ち帰るから
次の年に再び甲子園に出場するために、気持ちを切り替えるために持ち帰るから
後輩たちに甲子園に行くことを伝えるために、母校のグラウンドに撒くから
甲子園の土には、先輩や先人たちの汗と涙と情熱が染み込んでいると感じるから

甲子園の土を持ち帰ることは、高校球児たちにとって、自分の野球人生を振り返るとともに、未来に向かって進むための大切な儀式となっています。

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